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2009/03/20

音楽はどこからやってくるか

音楽はどこからやってくるか、これは人がどこからやって来るかに等しい。
人はものを作る。でも本当にそれは自分の中だけで生まれ、何の影響を受けずに独立しているものだろうか?
ハーモニーを付けたり、音色を整えたりするのは、多くは技術の積み重ねで出来る。でも、メロディはどうか?これは技術の範疇では説明の付かない、どこからやって来るのか科学的にも解明出来ない部分だろう。

考えてみると、音楽を創ったり、演奏したりする事は、なにか霊媒師の作業のようなものの様な気がする。
この年になって感じるわけではないが、音楽を創っている時の背後には明らかに何か居る。
背景にある何か形のない存在がを、自分の身体に憑依して形にしている。
だからもし自分の作品が素晴しいのであれば、その何かの存在であり、自分では何かをしている感覚はない。

ただ、この霊媒師の作業は技術の要る作業となる。
ある意味で原石のようなものに磨きをかけるような作業であり、支離滅裂に並べられた断片から流れを掴んで、人が解りやすい状態に形作る作業でもある。
そう、曲を創る作業は映画や雑誌を編集している感覚に近いのかも知れない。

即興演奏をする時は、まさにその背後の何かに演奏させられているとしか思えない場面がある。よく二台のプサルテリー(中世の箱琴)で会話をするように旋法を使った打ち合せのない即興演奏するが、調子が良ければ気の流れのようなものが見えてきて、自分の作為の世界では考えられないような美しさと自然観と独自性をもった時間の流れを作ることがある(※)。無宗教の自分が「神が宿る」としか説明の付かないことが多々ある。

空海の真言も宇宙の音を聴く事にあると思う。
僕の恩師、溝上日出夫先生も「ちょっと音を拾いに言ってくるよ」と散歩に出るという。 
ジョン・ケージが「作曲は、自分も聴衆の一人として楽しみたい」という内容の事を言っている。
自分の中だけでこね繰り回しただけの曲はつまらないと考えるのが自然なのだろう。
何が聴こえて来るか自分でも予測がつかない、だから音楽は面白いと思う。


※二台のプサルテリーの即興演奏はCDではカテリーナ古楽合奏団の「ドゥクチア」の「ショーム吹きの踊り」の前半、ロバの音楽座の「ロバの音さがし」の「雨のルーマニア」、一台のソロの即興では上野哲生の「いきものたちの哀歌」の「賛歌-木々は語る」などがある。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。はじめてコメントさせていただきます。
古楽でお世話になっているおぎやんです。
この記事を読んで、とてもうれしくなり、知り合いに紹介させていただきました。
先日、昔のバンドのメンバーとプサ二台で即興演奏をしました。
上野さんのおっしゃるようなこととは、ほど遠いですが、それでも何とも言えない音の色や粒が絡み合って、不思議な魔法が生まれるような体験でした。音の錬金術って、こういうことを言うのかなあ、とも感じました。
また、松本さん上野さんのプサルテリ二重奏が聴ける日を楽しみにしています。

投稿: おぎやん | 2011/09/06 20:02

おぎやんさん、お久しぶりです。
あまりおおっぴらに公開していないブログなので(家族も知らない)、よくぞ見つけてくれましたという気持ちです。
古楽市場では少しの時間、即興しましたね。
即興楽器でも古楽器がいちばんせわしない自分を浄化してくれる気がします。
でも、人様からお金を取るコンサートの中の即興で、この何かに弾かされている境地になるのは、無心になれる精神力と、良いお客さんの環境が必要ですね。

投稿: 上野哲生 | 2011/09/07 02:12

上野さん、お返事ありがとうございます。こちらのブログは、プサルテリのことで検索をしていたら、たまたま見つけたのだと思います。
古楽市場での即興。あの時間は宝物です。覚えてくださっていて、とてもうれしいです。
先日、宮沢賢治の「よだかの星」と「なめとこ山の熊」の語りのつなぎとして、プサルテリを演奏させていただく機会がありました。
東北の震災と、宮沢賢治の世界は深く繋がっていて、けれど苦しいとか悲しいいとか、そういうことではなくて。うまく言葉にできないのですが、その場で祈りや救いみたいなものを感じて、どこからかメロディが降ってきて「なにかに弾かされている境地」になったようでした。人前での演奏では、初めての感覚でした。

投稿: おぎやん | 2011/09/20 10:48

宮沢賢治は演劇やドラマでストーリー化し、どんなに巧みに演出しても納得する作品がなかなか現れないのは、論理では説明できない、このメロディがなぜ良いのかを説明できないと言う同じ意味で、宮沢作品は音楽そのものではないかと思うのです。
僕自身も琴久の「双子の星」だけでなく、若い頃から「蜘蛛となめくじ・・」のオペラを書いたり、さまざまな作品のインスピレーションの元にしてきました。まだ音が描かれていない音楽だから、音楽が幾らでも沸いてくるところがあります。

田中智学の門を叩き、自我が飛んでしまうほど愚直なほどに日本人を護ろうとしたり、その優しさは生きるもの全てに通じる優しさで、儚く思ったり、脆そうに思ったり、そんな気持ちがほとばしってくる歌のような作品なのかも知れない・・と勝手に思うのです。

もう一つ、宇宙好きの宮沢賢治は梵我一如を最も理解した文筆家かも知れない。自分と宇宙とを繋ぐという観念はまさにプサルテリー的な世界ではないか・・と勝手に思うのです。

おぎやんさん、賢治も東北も、パレスチナも宇宙も、どうぞ色んな魂や無為を身体で感じて、枯れるほどに演奏し続けてください。

投稿: 上野哲生 | 2011/09/21 00:53

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