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2010/09/02

オートマティスム(自動書記)

僕の中では曲を作る時も、詩を作る時も、絵を描く時も、演技をする時でも・・、こういう風に描きたいという一つの理想がある。
それは自分というものが見えてこない、匂ってこないものである。
それは自分の心がないという意味ではない。
あくまで自我の主張の固まりのようなものは作りたくない。

何をしたい、何が好きだ、何を食べたい、何は許せない、何は美しい・・・
そんな事を聞かされても、「ああそうかい」と言うしかない。
ま、この文章もそんな類のものだろう。
ただこういう場がないと伝わらない事もあるので、ここではあえて書く。

「無作為」「無為」という言葉が適切かも知れない。
自然を観ていればそれで良い、と言いたくなるかも知れないが、それでもない。
「龍安寺の石庭」のように、真言宗の声明のように、谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」のように、玉三郎さんの舞のように。あくまでも人間の力で自己を越えたものを築きたい。

2009/03/20のblog「音楽はどこからやってくるか」に書いたとおり、自分の中だけでこね繰り回しただけの曲はつまらないと考えるのが自然なのだろう。
即興演奏のように、自分も予期しない音同士の出合いによって生まれる別次元の世界。自動書記のように夢の中に浮かぶ映像の羅列のような言葉の化学反応。素材に何を取り入れても構わない、むしろそのイメージのギャップを楽しむコラージュ。そんな世界にずっと浸っていたい。

ただこの作業が手法で=つまり技術だけで成り立つと思っていけない。あくまで研ぎ澄まされた感覚で、全てを受け入れられる感性が必要となる。言い方を変えれば「まっくろくろすけ」が見えるような、子どものような目と感覚を持っていなければ見いだせるものではないと思っている。

若い頃には突然取り憑かれたように作品を作り続けるときがある。僕などはこの時期のものを越えられないで困っている。
今の方がそういったものを形にして、人に解りやすく伝えられる作品を作る事が出来る。ただ作品の原型を見いだす意味では、そのエネルギーの凄さに圧倒される。ただ磨かれていないために人に見せて受け入れられるかどうかは別問題である。

こんな話を始めたのも、自分が若い頃作った自動書記の詩が見つかった。シュールリアリズムに凝っていた時期でもあったが、今の自分にはこんなものは到底作れない。思えば詩というものが自分の中ではこの時期に終わってしまい、何も書けなくなってしまったに違いない。曲にしても似たようなところがある。昔思いついたメロディをいま再構成して曲にしている事がとても多い。

リンク先にその詩を乗せておくが、当時は性的な描写も多いのであまり人に見せたくなかった。自分の名前が付いて自分の中身を観られるようで嫌だったのだろう。
でも、今ははっきり言える。ここに自分は居ない。あくまでも何かが憑依して書かされた、「個」としての存在ではないエネルギーを感じ取る事が出来る・・・そう思うのは自分だけだろうか?

幻秘詩集(20代の終わりにから30代にかけて書いた自動書記による詩の一部)

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