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2015/05/10

5/5今年の「ことばとあそぶ おととあそぶ」

5月5日、今年も谷川さん親子を招いてのロバハウスライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」が無事終了した。
お客さんの誰もが優しい笑顔で帰って行く。コンサートの楽しさもあるだろうが、ここに至るまでの色んな物を背負った人たちが=谷川さん達や我々やお客さんも含めて集まり、何かが一つになる瞬間を感じるのかも知れない。
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何度話題にしたことだろう。何度でも話題にしたくなることがこの歌だ。
谷川俊太郎・作詞、林光・作曲「幸小学校校歌」=「わたしがたねを」は詩というものが何なのかが伝わる象徴的な作品だと思う。

この詩は曲もシンプルで素晴らしい。そして詩と共に歌として歌うと、何一つ悲しいことも感激するような言い回しもしていないのに涙が込み上げてくる。
公演中にその話題を出しても谷川さんは「ただ普通のことを書いているだけじゃないか」と言うけれど、この普通のことがなかなかできない。
(歌詞を全文載せたいところがありますが、著作権法に関わるので、違法を犯しているサイトを各自で検索してください)

ある意味では子どもが使う言葉しか使っていない。
「みんなでなかよく ちからをあわせる」
などとこんな子どもが言うような言葉で感動を誘う詩人を僕は知らない。

先日、Eテレの「高校生国語講座」で「言葉の達人に聞いてみる」コーナーに俊太郎さんが出て来た。
因みに、うちのビデオレコーダーは「谷川俊太郎」「山下洋輔」「坂東玉三郎」と、あと自分の弾く同じ楽器の名前があれば自動録画するように設定している。
ここで詩を書くアドヴァイスとして、
「『思い』を出来合の言葉に置き換えるのはつまらない。楽しいことをただ『楽しい』と言ってもつまらない。
僕の場合は『自分をゼロにすること』。
自分を白紙にすることによって、そこからほんのわずかの言葉が生まれたらしめたもの。そこから言葉の世界が拡がっていく。」と、明快な答えを言った。

この事は創造する心構えとしては当たり前の事なのだが、なかなかそうはならない。
曲を作るときも自分の出したい思いが強すぎると良い作品にならないし、良い即興だと思うときは必ず自分が無になっている。
前にも述べたが、音楽はやはり空間にある「何か」を汲み取ってくるものであり、自分の器が空っぽでないとそれがうまく汲み取れない。音楽も同じようにわずかなフレーズの断片が生まれ、そこから音楽が拡がっていく。

「こんな事を書きたい。あんな事を書きたい。」などと思っているうちは、人が共感できるものは生まれないだろう。そんなことは百も承知なのだが、出したい自分が旺盛でなかなか達人の境地には近づけない。
ま、ひたすら無心に没頭し作り続けていくしかないのでしょうね?

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