5/5今年の「ことばとあそぶ おととあそぶ」
堀越二郎のゼロ戦と堀辰雄の節子と菜穂子がほどよく混ざり合い、「堀」で固めた駿府城は簡単には墜ちなかった。
前にも触れたが、僕の親父は紫電改の一部を設計した人間で、主人公が他人とは思えないところがある。それだけにその時代に生きた自分の分身のようなものを感じ、大きく感動をもたらした。色々言われているが、素直に良い映画だったと思う。
確かにこの映画に「トトロ」や「千と千尋」のような、子どもから高齢者までもグイグイ引きずり込むようなパワーはない。ただそれだけにリアルであり、そこに自分が居たら何を感じたんだろう、などとイマジネーションが他作品より数倍膨らむ。
宮崎駿さんが「自分は一介のアニメーターだ」のような発言をした記憶がある。それは僕も前から感じていたことで、宮崎作品はどんなにテーマやストーリーが素晴らしくても、世界観や主張が素晴らしくても、アニメーションの表現力が弱ければ全く評価されていないかもしれない。それは「ゲド戦記」を観ると可哀想なくらいにアニメの力の差を見せつけられてしまった。
宮崎さんは基本的に飛行機と女性を描きたかった。それをしっかり描くことで主人公を表現できる。「戦争をどう考えるか」「どう生きていくか」などとテーマが深いところにあって全てがそれに沿って作られているように思われているが、実はそれはキャラとその周りをしっかり描くことでテーマは自然に深まっていく事だと思う。「生きねば」などとただ台詞で言っただけではなんの説得力もない。「生きねば」と思わせる世界をどれだけ丁寧に描ききるかが大事だと思う。こんな当たり前の話を諄いと思われるならゴメンナサイ。
引退を表明していたけれど、毎回聞いているような気がする。70過ぎた作曲家が交響曲はしんどいからもう書かないと言うかも知れないけれど、音楽を止めるとは言わないだろう。いや、やめられるはずはない。宮崎さんもアニメーションから手を引くとは言っていない。ただもはや「トトロ」や「千と千尋」のようなものを期待されても困るというのも本音だと思う。だから期待はしないで、そっと楽しみにしているのが一番良いのでは・・・。
谷川俊太郎さんと賢作さん(&ロバの音楽座)による毎年5月5日の定番ロバハウスライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」は、2003年に始まり今回で10回目を迎えた。俊太郎さんとはその前のロバハウス完成時にも2度ほど共演させていただいた。年々若返っていく俊太郎さんを観て、まるで幼児と接すると若いエネルギーをもらうような感じで、元気になっていく僕がある。
80歳を越えられても朗読するだけでなく、歌ったり、パフォーマンスをしたり、賢作さんとのライブも多い所為か本当に舞台人の様相を成してきた。歌も朗読も聴かせるというツボを押さえられている。家には多くのこの会の録音があるが、あきからに10年前と比べると良い意味で本格的な舞台人になられた。
特にロバの音楽座も絡むロバハウスでのこの面白さ、この世界観はいくら言葉を使っても書き表す事は出来ない。ご興味のある方は是非とも5月5日を万事を差し置いて予約されたし。まだ10年先まではやっているような気がする。
Photo by FUKAHORI mizuho
ライブの数日前に、俊太郎さんのどの詩が今まで一番感銘を受けたのだろうかと、家にある本をいろいろ読み返してみた。それぞれの時代に素晴らしい作品があるのだが、改めてすごい思ったのは20歳になる前位に書かれた処女作「二十億光年の孤独」にある一連の作品群だ。
恐らくそれはラジオをいじる事と同様、人に読まれる事など意識せず書いたもので、今まで心の中に溜めていたものを一気に溢れさせる事になる。題にもなっている「孤独」感は決して感情で表さず、むしろ宇宙と自分との関わりの中で、孤独である事を超越してしまっている。
これはまさにインド哲学にある「梵我一如」(小我と大我=宇宙は同じ物で区別がない言う考え)を詩を書いているうちに無意識のうちに宿っているのではないかと。
あえて別なもの、矛盾するもの同士のぶつかり合いも、結局素粒子化してしまえば同じ物で、自分も他人も動物も地球も銀河も分け隔て無い。だからこそどんな物の中にでも自分を入れられる。そんな考えの基で谷川さんの中での孤独は悠然と楽しんでさえいる。
今まで色んな評論で本人の内部まで嫌と言うほど分析され、今更僕みたいな薄学?の人間が何かを言う事は奥がましかったのだが、公演の後、あえて俊太郎さんに上記のような内容の解釈を聞いてみた。俊太郎さんはそれに対して優しく丁寧に答えてくれた。
「後から考えればそうだけど、あの時は確かに無意識の中から哲学的なものが生まれてきた。それまで起こった事の様々な感情がああいった形で出て来たんだよ。宇宙とのつながりは宮沢賢治の影響も少しあるかも知れないなあ。」
正確でないかも知れないが、もっと綺麗な言葉の流れでこういった内容を答えていただいた。その嬉しいという気持ちをどう表せばいいかわからない!?
宮沢賢治はもちろん至る処に宇宙が登場するが、例えば「鹿踊りのはじまり」を読んだ時にも、嘉十と鹿と太陽との間の違う世界でありながら一点で結ばれている。まさにこれが「梵我一如」だと思ったのは僕だけだろうか?
結末は嘉十と鹿達は相容れなかったが、そこが現実の中の孤独となるのではないか・・・。
ワールドカップの時だったと思う。息子は言った。
「日本の国歌って、なんて暗いんだろう」
僕はすかさず言った。
「日本の国歌は素晴らしいと思う。なぜならサウジアラビアでもイランでもあの固有の音階を使うわけでもなく普通の西洋の軍隊マーチみたいな曲だし、韓国だって中国だって自国の伝統音楽を利用しているわけじゃない。日本の国歌ほど自国の伝統音楽(この場合は雅楽)を個性的に色濃く出している国歌はないよ。好きか嫌いかは個人の自由だけれど、僕はこのことは他の国に真似できなかった誇れる事だと思うよ。」
まとまりのない僕のリアルタイムの発言にしては、ずいぶん的確な意見を述べることが出来たと思う。
原歌が「古今和歌集」であるため、もともと「君が代」とは天皇自体を指すとは考えにくい。戦時中の天皇主権での象徴的な歌として歌詞が嫌われ、曲も暗いと嫌われ、もっと明るい歌か、国民的な「故郷」に換えたら、と、形無しの「君が代」であるが、僕はそうは思わない。
音楽そのものには何も罪はないと思う。僕の作った曲、たとえば「ハッピーソング」の様な曲がある殺人宗教団体の団歌になったりすると、多くの人はこの歌をとても嫌うだろう。作った人にとってはとても悲しい出来事である。誰かが熱狂的に好きな曲は、誰かが嫌いになる可能性が高い。
ヒトラーが崇拝していたワーグナーを聴いて身震いするユダヤ人もいるだろう。その環境に左右されて芸術の絶対性が揺るぐ事はおかしいと思う。まあ一般の人がそこまで感性が自由になるのは難しい事かも知れないが。
歌詞も「君」を「天皇」と押しつける感覚がなければ、日々の永遠の安泰を願った、こんな素晴らしい歌詞はないと思う。
国を鼓舞したり賛美する国歌が多い中で、こんな平穏な国歌は何処にもないのではないか。こんな国歌があったっていいじゃないか。
一つ気に入らないところがあるとすれば、ドイツ人の付けたお馴染みの吹奏楽の伴奏である。これはまさしく鹿鳴館の逆のようなセンスだ。どうせなら雅楽のままか、無理なら少しドビュッシーかサティ風に伴奏を換えても良いと思う。古楽器でやると中世風のオルガヌムのような素晴らしい宗教曲になりそうだが、そこまでやると思いっきり国粋の方々からどやされるだろう。国歌を好きな人にも、少しでも伴奏を換えることは許してくれないだろう。この辺の不自由さがつきまとう曲である。
それにしてもである。橋本知事の「君が代」強制はせっかくいくらか芽生え始めた「君が代」の支持をぶち壊してしまうだろう。日教組との衝突が避けられるわけがない。避けられるはずの争いをしない事が「君が代」の本意じゃないのだろうか。
だいたい無理矢理歌えと言うものを好きになれるわけがない。ビートルズの曲が教科書に載り、無理矢理「ほら、もっと声をださんかい!」などと怒鳴られ歌わされたとしたら、ビートルズを今後好きになる可能性のある多くの人を失う事になる。
もっと「君が代」の意味、独自性、芸術性を説く事から始めれば理解の余地があるのに、結局ファッショの象徴の曲にしてしまうのではなんの意味もないと思うのだが。
皆さんはどうお考えですか?
僕の中では曲を作る時も、詩を作る時も、絵を描く時も、演技をする時でも・・、こういう風に描きたいという一つの理想がある。
それは自分というものが見えてこない、匂ってこないものである。
それは自分の心がないという意味ではない。
あくまで自我の主張の固まりのようなものは作りたくない。
何をしたい、何が好きだ、何を食べたい、何は許せない、何は美しい・・・
そんな事を聞かされても、「ああそうかい」と言うしかない。
ま、この文章もそんな類のものだろう。
ただこういう場がないと伝わらない事もあるので、ここではあえて書く。
「無作為」「無為」という言葉が適切かも知れない。
自然を観ていればそれで良い、と言いたくなるかも知れないが、それでもない。
「龍安寺の石庭」のように、真言宗の声明のように、谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」のように、玉三郎さんの舞のように。あくまでも人間の力で自己を越えたものを築きたい。
2009/03/20のblog「音楽はどこからやってくるか」に書いたとおり、自分の中だけでこね繰り回しただけの曲はつまらないと考えるのが自然なのだろう。
即興演奏のように、自分も予期しない音同士の出合いによって生まれる別次元の世界。自動書記のように夢の中に浮かぶ映像の羅列のような言葉の化学反応。素材に何を取り入れても構わない、むしろそのイメージのギャップを楽しむコラージュ。そんな世界にずっと浸っていたい。
ただこの作業が手法で=つまり技術だけで成り立つと思っていけない。あくまで研ぎ澄まされた感覚で、全てを受け入れられる感性が必要となる。言い方を変えれば「まっくろくろすけ」が見えるような、子どものような目と感覚を持っていなければ見いだせるものではないと思っている。
若い頃には突然取り憑かれたように作品を作り続けるときがある。僕などはこの時期のものを越えられないで困っている。
今の方がそういったものを形にして、人に解りやすく伝えられる作品を作る事が出来る。ただ作品の原型を見いだす意味では、そのエネルギーの凄さに圧倒される。ただ磨かれていないために人に見せて受け入れられるかどうかは別問題である。
こんな話を始めたのも、自分が若い頃作った自動書記の詩が見つかった。シュールリアリズムに凝っていた時期でもあったが、今の自分にはこんなものは到底作れない。思えば詩というものが自分の中ではこの時期に終わってしまい、何も書けなくなってしまったに違いない。曲にしても似たようなところがある。昔思いついたメロディをいま再構成して曲にしている事がとても多い。
リンク先にその詩を乗せておくが、当時は性的な描写も多いのであまり人に見せたくなかった。自分の名前が付いて自分の中身を観られるようで嫌だったのだろう。
でも、今ははっきり言える。ここに自分は居ない。あくまでも何かが憑依して書かされた、「個」としての存在ではないエネルギーを感じ取る事が出来る・・・そう思うのは自分だけだろうか?
映画でもアニメでも、スリルのある物語りはよく何か非常な事件が起こり、そこに巻き込まれて危うく死にそうになったりする。ヒロインは大概、精神障害になりそうなひどい目にばかり遭う。
例えばアニメの「名探偵コナン」のヒロインの蘭はいったい何度死にそうな目に遭っているのだろうか。憧れの新一には逢う事も出来ず、死にそうな目にばかり遭っている、なんと悲しい人生だろう。
死を賭けたゲームのような世界の中に舞い込み、自分だけでなく大切な人の命を奪われそうな極限状態になり、それを何とか危機一髪で乗り切って安堵感を楽しむ。一般的に感動するドラマの多くは、そうした単純な作りになっている。
つまりは平和が良いと言っておきながら、人間はなにか平和ではない要因が起こり、それを回避するところに生き甲斐を感じる部分があるのではないか?映画などの娯楽は現実には嫌だけれど、代行で命を賭けたもう一人の自分が戦ってヒロインを守り、それを乗り切った中での平穏を味わっている。
事件が起こらないと探偵や警察の活躍する場面はないわけだが、この辺りの感覚をもうワンステップアップしないと、現世の修羅の世界から解脱出来ない気がする。
アンデルセンやグリムの時代の童話は、ある意味とても残酷だ。日本では伊勢物語の鬼に飲み込まれる女や、宮沢賢治の童話でもそうだが、ある意味で死は無作為にやって来る。
それはあたかも野ネズミが狐に追われて食べられたり、虫たちが車の窓に当たって死んだりする、ごく日常の、お茶を飲むような次元と同じように死がやって来る。そこに読むものは悲しさだけでない、世の流れ、摂理不条理、もののあわれなど様々な感覚を味わう。
映画「男はつらいよ」の寅さんは、映画になる前のテレビ版の時代には最終回でハブに噛まれて死んでしまう。それの抗議が映画化になったらしいが、男の一代記ならどこかで終りが来るだろう。漱石の「猫」でも酒樽に落ちて溺れ死ぬ。
マンガを読み始めた小学5年生くらいの頃、石川球太画、戸川幸夫原作の「牙王」は、人間も動物も自然の中で沢山死んでいった。ヒロインの早苗が熊に食べられて死んだ時は唖然とした。既にディズニー映画のハッピーエンドに慣らされていた僕は、一年くらい立ち直れなかった。
それに比べると「力石」の死は若干の作為を感じてしまう。なにも挑戦者のためになにもそこまで階級を落として戦う事はなかったんじゃないか。そういう「力石」の気分がリアルではない。でも彼の死があることで「あしたのジョー」は忘れられない名作になってしまっている。
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